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大久野島毒ガス資料館

この島では1929年(昭和4年)から1944年(昭和19年)あるいは1945年(昭和20年)終戦まで、秘密裏に大日本帝国陸軍によって毒ガスが製造されていた。その歴史を風化させないという地元住民の願いがあり、毒ガス資料館が建設された。

建物自体は竹原市および周辺市町の元工員や動員学徒など毒ガス被害者の数団体で結成された「大久野島毒ガス被害者対策連絡協議会」が建設し、竹原市に寄贈。1988年(昭和63年)4月、竹原市所有・連絡協の運営で開館した。この経緯は、当時島全体は環境庁(現環境省)が所有する国有地であったこと、国側は建設は許可したものの毒ガスのことを公表することに消極的であったことから。初代館長は元工員でのち竹原市役所に勤務した村上初一。

2006年から指定管理者制度を導入、2009年から「休暇村大久野島」が管理している。近年連絡協議会は高齢化によって維持活動が困難になりつつあるとして、毒ガスに関する各種資料の保存に関して国の介入を呼びかけている。


年間入場者数は、開館当初は5・6万人台、最大は1995年で約6万5千人、そこから90年代後半に減少の一途をたどり、2004年から2008年の間は2万人台、2015年時点ではウサギの島として観光客が増大したことに伴い4万人台にまで回復している。


島内には毒ガスを製造していた頃の建物が遺構として残っているが、ほぼ立ち入り禁止であることに注意が必要である。大久野島神社境内にある殉職碑は2人目の死者がでた1937年に建立されたもの、毒ガス障害死没者慰霊碑は1983年に建立されたもので、以降毎年協議会の主催で慰霊式が行われている。


この島で毒ガスを製造した過程で多くの犠牲者を出すに至った事は誠に痛ましく、その悲惨さを訴え、そして恒久平和を願う目的で1988年にこの資料館が建設されました。今では年間多くの方がこの地を平和学習の場として訪れています。



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