大三島・甘崎城跡
- とよっチ

- 2020年8月11日
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古代では大山祇神社の東方鎮護として機能した島だが、古名は「アマノサキ」で、アマは海人を、サキは防人の意を指し、鎌倉期に海人(海武士)を取り締まるために城砦が築かれた(海武士から警護する)ことから始まり、由来はそこからきている。
13世紀の元寇をきっかけとして、海武士の取り締まりから一転、海上交通の取り締まりをする役割を担い経て、南北朝期から戦国期にかけては村上水軍が東から下って来た船舶を捕捉して積荷を改め、通行税を徴収する拠点に至る。この税を生活の糧とした。

歴代城主は、三島村上水軍時代では、来島村上氏の4代村上通康、その後を家臣の村上吉継(16世紀前半)、豊臣秀吉が瀬戸内海の覇権を握ると藤堂高虎の属城となり、その従弟・良勝が城主となる。慶長13年(1608年)の藤堂高虎の移封によって廃城となった。
甘崎城は大三島の沖合に浮かぶ島全体を城郭とした海城で、海の難所とされる花栗瀬戸を押える位置にあります。村上海賊が去った後も、藤堂氏によって近世城郭として改修された日本唯一の海城となります。城跡には大小30mに及ぶ直線の石垣遺構が海底にあり、大潮時には石積みも出現。そして、年に数回の潮の干満の大きい時には海が割れ、岸から島に歩いて渡ることができます。
折り畳みでき、電車移動も可能です。ぜひ、しまなみ海道を走破したい。




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