大三島・瀬戸内のジャンヌダルク
- とよっチ
- 2020年8月13日
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彼女の生涯は、たびたび大三島に侵攻した周防の大内氏の軍勢に対して兵を率いて立ち向かい、交戦してこれを撃退するも、最期は戦死した恋人・越智安成(おち やすなり)の後を追って自殺したという「鶴姫伝説」として知られている。また、大山祇神社は併せて、同社が所蔵する重要文化財の紺糸裾素懸威胴丸(こんいとすそすがけおどしどうまる)は鶴姫が使用したもので、日本に唯一現存する女性用に作られた鎧であると主張している。

しかし、「鶴姫伝説」が広まった発端は、大祝家の末裔である三島安精(みしま やすきよ)が1966年(昭和41年)に著した小説『海と女と鎧 瀬戸内のジャンヌ・ダルク』にあり、同書が発表されるまで、鶴姫の存在は大三島の島民にすら知られていなかった(「鶴姫伝説」の知名度上昇の経緯にて後述)。加えて、鶴姫の実在性やその事績については、当時の中国・四国地方の歴史的状況に基づく観点から疑問が出されており、三島が『海と女と鎧 瀬戸内のジャンヌ・ダルク』を執筆する際に典拠とした文献であるという『大祝家記』(おおほうりかき)も、現在は行方不明で確認できないという問題を抱えている。さらに、紺糸裾素懸威胴丸が鶴姫の用いた女性用の鎧であるとする大山祇神社による言説も、三島が同書中にて提唱したのがその最初、つまり1966年から登場したもので、一部の甲冑武具研究者は、神社側の主張に対して否定的・批判的な見解を表明している(「鶴姫伝説」の真偽をめぐる疑義・問題にて詳述)。
なお、大三島の下条地域には「おつるさん」という小さな祠があるが、関係は不明である。

戦国時代、周防の大内氏が中国・九州地方で勢力を拡大し、伊予の河野氏の勢力下である瀬戸内海へもその勢いが拡大の一途を辿っていた。大山祇神社の大祝職たる大祝家当主は、神職を務める立場から戦場に赴くことはなかったが、戦が起きた場合は一族の者を代理役の陣代に立てて派遣していた。1522年(大永2年)に大内氏が大三島へ侵攻してきた際には、鶴姫の兄・安舎が父・安用の陣代として出陣し、大祝家と同じく越智氏に出自する河野氏や村上水軍の援護を受けて大内軍を撃退したという(第一次大三島合戦)。
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