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ふくやま草戸千軒ミュージアム

芦田川の河口に栄えた、中世民衆の港町「草戸千軒」の町並みを実物大に復原した展示室は見ごたえ十分!重要文化財「菅茶山関係資料」の展示室では、2カ月ごとにテーマを設定して展示資料を入れ替えます。「バーチャルリアリティ(VR)遣明船」にも“乗船”しましょう!

国や県から重要文化財に指定されている貴重な資料を展示するとともに、関連する文化財を併せて展示し、それらの資料にまつわる歴史・文化の物語を紹介します。また、展示と併せて、夏休みの宿題に使えるワークシートも作成します。この機会にぜひお越しください!


福山城公園内の文化ゾーンに位置する博物館。川底に埋もれた中世の町として、全国的に有名な草戸千軒町遺跡を中心に、瀬戸内地域の民衆生活と文化に視点を当てた展示を行っている。「通史展示室」では、原始・古代から現代にいたる瀬戸内地域の歴史を、「交通・交易」と「民衆生活」の2つのテーマによってたどる。「草戸千軒展示室」では、鎌倉時代末期の初夏の夕暮れ時の町並みを実物大で再現しており、その佇まいは必見。平成30年度(2018年度)にリニューアルオープンした「近世文化展示室」では、江戸時代後期の教育者・漢詩人である菅茶山が遺した国重要文化財「菅茶山関係資料」の展示を通して、近世の歴史と文化を紹介している。

 江戸時代中期の地誌『備陽六郡志』(びようろくぐんし)に記された伝説の町「草戸千軒」は、大正末年に始まる芦田川の改修工事によって発見された。改修工事中の昭和5年(1930)に中州の土砂を掘削して堤防を築き始めたところ、五輪塔(ごりんとう)や宝篋印塔(ほうきょういんとう)とともに陶磁器や古銭などが多数出土した。このことは郷土史家によって注目されたが、このときは学術調査が実施されるまでには至らず、遺跡は再び埋もれてしまった。


川底に埋もれた遺跡が再び日の目を見ることになったのは昭和36・37年(1961・1962)のことで、福山市教育委員会によって学術的な発掘調査が行われた。昭和40年(1965)の第3次調査では、遺跡西方の明王院に向かう石敷道路や鍛冶遺構が検出され、「川底に埋もれた中世の町」として学界の注目を浴びることになった。


こうして遺跡の重要性が確認され、本格的な調査計画が立てられようとしていた矢先の昭和42年(1967)、芦田川が一級河川に昇格し、遺跡周辺の護岸が集中豪雨によって大きな被害を受けたのに伴い、建設省は新たな河川改修計画を立案し、遺跡の消滅が予想されるに至った。このため広島県教育委員会は保存対策に取り組むことになり、建設省と協議を重ねた。これとは別に、遺跡が中州にあるため自然流失による破壊も進んでおり、昭和43年(1968)の高水敷護岸工事に先立つ調査を契機に、翌44年から国庫補助を受けて緊急調査を実施して記録保存を図ることになった。昭和46年(1971)には新たに河口堰建設計画が発表され、調査不能という最悪の事態が予想されるに至った。

 

そこで県教育委員会は建設省と再度協議を重ねるとともに、遺跡の重要性にかんがみ、遺跡包蔵中州を年次計画で完掘しようとする本格的な調査計画を立案し、昭和48年(1973)現地の福山市に草戸千軒町遺跡調査所(のちの調査研究所)を設置して調査を開始した。その結果、中世の瀬戸内に発達した都市民衆の生活文化が次第に明らかになってきた。

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