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「海援隊」いろは丸事件の顛末

若き熱血の志士・坂本龍馬は、「海援隊」を組織し、いろは丸事件で決死の談判を行い、御三家の紀州藩を脅かした。その他、『船中八景』など示して、大政奉還へと導いた。

 

「いずれ血を見ずはなるまいと存じ居り候」、坂本龍馬は事件の顛末を記した書状を、大阪の海援隊の菅野覚兵衛に宛て送付しました。 「我々共荷物も何も失いしものをただ鞆の港になげあげ」、紀州藩の明光丸は鞆港から長崎に向けて出航しました。


1867年(慶応3年)4月27日午後の事です。激怒の文面で、

決死の覚悟が読み取れます。  

坂本龍馬は慶応3年4月初旬に海援隊を組織し、伊予大洲藩から「いろは丸」を借用し、海運業にのりだしました。4月19日、長崎港を出航し、大阪に向けて物資を輸送中、23日午後11時頃、岡山県六島沖で紀州藩の軍艦明光丸と衝突しました。明光丸は鞆の津へ向けて、いろは丸を曳航していましたが、宇治島南4Kmの地点でいろは丸は沈没したのです。

いろは丸は1862年建造のイギリス製商船(160トン)ですが、明光丸は1861年建造のイギリス製軍艦(887トン)です。いろは丸の右舷から蒸気室の横腹に衝突したのです。明光丸は、90メートル位バックして、また、フルスピードでいろは丸に突っ込みました。また、明光丸には見張りを立てていませんでした。この2点で、龍馬側は航海日誌を交換したり、当時の国際法である万国公法で交渉したりして、紀州藩から損害賠償を取り、近代海難裁判の先駆けとなりました。  

さて、4月24日午前6時頃、明光丸だけが鞆港に入港。海援隊は土佐と商取引のある桝屋清右衛門宅に宿泊し、明光丸側は円福寺に宿泊しました。


24日から27日まで、紀州藩の準備した魚屋萬蔵宅や対潮楼で、交渉を昼夜続行しましたが決裂し、27日明光丸は長崎へ出航しました。翌日、龍馬側はその後を追い、交渉の場所を長崎に移してようやく決着しました。

引用:鞆の浦、いろは丸展示館パネルより。


鞆の浦の沖合に沈没しており、数回にわたって引き上げに向けての調査が行われた。

だが、現実には引き上げされていない。

 
 
 

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